世界を一変させたパンデミック。まだ終息していませんが、地球上のほぼ全ての国や人が影響を受けたと思われます。私はもう何年もテレビを所有していませんが、聞くところによると毎日来る日も来る日も感染者数を放送しているとか。もっと放送すべきことがあるでしょうけど、分かっていながらそうしたメディアに踊らされてしまうのも事実でしょう。 それでなくても不安なのに、火に油を注がれるわけですから、たまりません。
 
今回のパンデミックがなぜここまでパニックにさせてしまうのか。ひとつは未知との遭遇のようなものでしょう。 これまで現代人が経験したこともない、しかも「死」を感じさせる状態が全世界で同時進行しているわけですから、無理もありません。 予測が付きにくく、見えにくい敵、そして「死」がぶら下がっていることがパニックの素にはなっていると思います。
 
現代社会ではこの「死」を日常的に目の当たりすることがほとんど無くなりました。
以前、スロバキア共和国の田舎を訪問した際、自宅に家畜を屠畜する専用の小屋に処理設備、道具、ソーセージなど保存食を作るキッチンや巨大な冷蔵庫を目にしました。 当然生と死を日常で感じる生活を送っているわけです。 
 
また、フィリピンの原住民に自律出来るようになる為に、コーヒー栽培の基礎を伝えに行った際も、そこらを走り回っている鶏を特別なゲストだからと目の前で絞めてくれ、
美味しい料理を頂戴しました。 コーヒー生産国でも似た光景は目にします。
 
またそうした地域は人の死も身近です。寿命も短いですし、病死や事故死がとても多いのです。 今付き合いのある生産者達の親も私と知り合ってから他界しています。
 
そんな「死」を身近に感じている彼らに連絡を取ってみると、パンデミックによる恐怖をほとんど感じていません。 なるようになると以前から腹をくくっているのか、自然の摂理に逆らうつもりがないのかわかりませんが、少なくとも日本人より遥かに穏やかな日々を送っています。 私は、これが生活の中に死を考える機会がある、ないの差のように感じています。
 
折角訪れたこの機会に、自分というものに目を今一度向け、脳内に蓄積した不要な考えや知識を断捨離し、その上で、再度これからの生き方や本当に大切にしたいものを考えると良いのではないでしょうか。 そうすれば、いずれいつかは死を迎えることを再認識でき、この有限の時間を有意義に使えるようになり、パンデミックぐらいでパニックになっている時間が勿体ないと感じてくると思います。 少なくとも私にはやりたいことがありすぎて、パンデミックが理由でパニックになる暇がありません。 たまに自分に負荷をかけ過ぎてパニックになりそうになることはありますけど。
 
遅かれ早かれ訪れる死を受け入れ続け、そういうものなんだと腹に落とし込み、さぁ~これからの人生をどう謳歌してやろうか!ぐらいの意識の方が健全かもしれません。
「人生=死ぬまでの時間」 ですからね。