端的に言うと、当事者意識を持ち、求められる物を理解でき、何が問題かを探し出し、 解決する能力がある人と、一緒に仕事をしていきたいと考えています。 プライベートでは そういう方々との接点を重視していっています。

では、生きる力とはどこで養われるものなのでしょうか。 学校の授業で学ぶ科目にも ありませんし、塾で教えてもらえるわけでもありません。 私が思うに、家庭環境や親の 影響、もしくは、育った地域などの環境全体にそういった風土があった場合、生きる力を自 然と身につけることができるような気がしています。 特に親の影響は大きいと思います。 生きる力と呼ぶからには、何かしら武器が必要となります。

私の場合は、他言語の習得の し易さや、世界中どこでも生活していけるであろう順応力も武器になり得るかもしれませ んし、幼少期から物事を掘り下げて考える癖は今でも変わりません。なんでだろう、どう してだろうと些細な事でも不思議に思えば、掘り下げていきますし、それが楽しいと感じ ています。 既にある物や物事を分解、分析をする癖も私にとっては一つの武器と言えるか もしれません。

とにかく武器は人それぞれあるにしても、持っているだけでは宝の持ち腐 れとなってしまいます。 まずは自分の武器は何かを洗いざらい書き出してみると自己分析 が出来ます。 自分を知りさえすれば、周りに流されることもなくなるばかりか、人生を 自分でコントロールし、有意義なものにすることができ、人生を終える時には悔いが残らない ことでしょう。 悔いが残らない人生とは、生き様にも満足したということだと思います。 また、生きる力とは、原始時代も現代社会でも、「飯を食っていく力」が根底にはあると思い ます。

飯が食っていけないのは致命的です。 野生では死を意味します。 人間社会では野 生程シビアでないにしろ、自らの強みを使いながら、飯が食える状態にもってけるかどうかが 鍵となります。 自己分析もせず、強みを磨かないと、人に使われる人生で終わります。 どんな武器であっても、生きていく為のご飯が食べられないのであれば、それらの武器の使い 方が間違っているか、時代にあってない武器なのかもしれません。 すなわちそれは生きる力 とは言えないと私は思っています。

飯を食うためにどうしていくべきかを考えられる人材 が、これからも一緒に働いていきたいと思えるタイプです。 今働いてくれているスタッフ達も、それぞれの強みを活かし、お互いを尊敬しながら一致団 結し、雇われ側であっても経営者と同じ当事者意識を持ちながら、自分の武器だけでな く、弱みも考慮した上で、それぞれの課題に果敢に挑戦し続けている者ばかりです。 そうした姿を見ていると、私も更に先に進んで行かないといけないなと、奮起させられます。