子供の教育場面でも、社会人になってからも、何かと自分を信じなさい、自分の力を信じなさいとよく耳にしませんか。確かに自分の力がどれ程のものなのだろうかと考えたりもしますし、自信がなくなる場面は人生の間には幾度もあることでしょう。しかし、自信がなくなるということは、もともと自信があったという事ではないでしょうか。自信はなかったかもしれないけど、自信を持ちなさいと言われ続けてきたので、あたかも自信があるかのように錯覚していたのかもしれません。とにかく必要以上に、自分に自信を持つことが大切かのように教育されてきている気がします。
 
もし、自信をもつことがそれ程重要ではないと子供の頃から知っていたとしたら、その瞬間瞬間の自分の行動や考えに対してどのような対処をするでしょうか。 自分がとった行動や言動など、自分から発せられるものに、まず疑う癖がつくのではないでしょうか。自信は必要ないのなら、自信を失う必要も最初から頭にありません。自信の代わりに、事を進めたり改善したりする際これでよいのか、正しい方向なのか、適正な言動だったのだろうかと、疑う癖がつくのではないでしょうか。
 
この自分を疑うことこそが、幸せに生きる上でも、とても大切なのではないかと感じています。自分を疑わない人は、自信過剰とも言えます。無意識であったとしても、きっと自分は間違っていないと思っている段階で、ある種の自信過剰になっているわけですから、そこに気付かなければ、ほとんどの人が自信過剰の時間が人生の中で最も占めているのかもしれません。自信過剰でいることにさえ、気付いていないのであれば少ない学びしか得られないでしょう。元来人は自分は間違わないだろうと思いがちな生き物なのかもしれません。
 
限りある人生のなかで、私たちが体験できることには限りがあります。知る事も限界があります。短い人生の間で全てを掌握することなんてできやしないわけですから、目の前や身近なものに注意を向けて生きていくしかありません。言い換えれば、そもそもが狭い世界の中での人生なのではないかと思うわけです。そんな狭い世界で、自分に自信を持ち続け、目を向けなければならないことから目を背け、慢心から気付けなかったことが起こり、過信により学べないことが多分にあるとしたら、どんなに勿体ない生き方をしてしまっていることでしょう。
 
コーヒーの世界でも同様のことが例えられます。自分を疑う癖がある人は、焙煎をするにしても美味しく焙煎できなかった時は、まずは自分を疑います。自分を疑わない人は、原料のせいにしたり、焙煎機のせいにしたり、天気のせいにしたりと、全て自分以外のせいにしてしまうことでしょう。こんなことではいつまで経っても美味しく焙煎できません。バリスタも同じです。美味しいコーヒーがはいらない事をエスプレッソマシンのせいにしたり、グラインダーのせいにしたり、焙煎豆のせいにしたりと、成長できないことばかりが頭をよぎります。何もかも、自分を疑うことをまずは徹底的にすることが、新しい世界に繋がるんだと自己暗示をかけるぐらいで丁度いいのかもしれません。
 
一見自分が原因でなさそうな出来事であったとしても何処かに因果関係があるかもしれませんし、その因果関係でさえ、自分は正しいと思い込んでいると見つけることが全くできません。成長が喜びの人であれば、まず自分を疑い改善し、過信を排除し、成長の種をひたすら見つけ続けることが幸せな人生となるのではないかなと思います。