自分の書庫にゲーテ関連の本が何冊かあるのですが、知と共に疑いは育つという名言があります。自分の中に昔から持ち続けている気持ちと同じだったので、直ぐに印象に残ったセリフでした。「知」についてはゲーテはいくつも名セリフを残しているのですが、まず知ることから始まるなと思うわけです。卵が先か鶏が先かの話になりますが、欲求が生まれるから知るということより、知ってしまったからもっと知りたい欲求が生まれるの方が自然な流れのような気がしています。そして知れば知るほど自分の中に矛盾も自然発生し、それが次第に疑いにも変化していくなと経験上感じています。

小学生の頃は知っているからなんぼのもんじゃい!と物知りの友人に思っていた時期があったのを覚えていますが、それは単なる自分の無知に対する憤りから生まれたもので、自分も知りたいと思えば良かったまでです。小学生の自分にそんな風に考える能力は備わっていなかったのが残念ですが、今はいい大人ですし、無知は罪とさえ思って生活しているので、コーヒーの事に関わらず、様々なことを知っていく姿勢と行動を取っていっています。

頭でっかちにもなりたくないものです。まさに先ほどの知っているからなんぼのもんじゃい!というセリフを自分に対して感じるようでは、いけないなと思うわけです。知って、考えて、見て、考えてと、行動をし続けることで、知るという範囲が広がり、そこに経験がミルフィーユのように重なり合い、腹に落とし込まれていくのかなと。頭でっかちにならない為にも、知だけを蓄えることはせず、経験則までもっていくことをし、腹に落とし込んだとしてもそれが永久固定のものと捉えず、いつでも変化させることができる柔軟性も備わっておきたいものです。

そうこうしているうちに度々自分はなんて無知なんだと感じることが増え、知と経験のミルフィーユを生きている限り増やしていきたいと勝手に意欲が湧くわけです。皆がそうなのかは分かりません。少なくとも私はそういうタイプです。他人に聞く前に知りたいことが湧き出たのであれば、まず自分で調べて理解してみようとし、より詳しい人に意見を聞くころには、ある程度会話が出来るほどの知識と経験を持ち合わせていたいのです。その後に知る自分の知と知恵の足りなさを認識し、行動によって足らない部分を補填していくイメージが自分にはあります。

世の中知らない事だらけです。知っている気になっているだけで、実は何も分かっていないのだと思います。どんなに分かっているように難しい話をする人がいたとしても、実際は分かっていないのです。いつまでもそれぞれの分野では自分の無知はひたすら続き、その世界は広いのだと感じています。もうそうなってくると、諦めというか開き直りに近い状態に自分をした上で、知見を有していきながら自分と自分に関わる物事の可能性を高めていくしかないのかなと。

知る事によって知らされ自分の無知に気付く素直さは子の育て方においても大切にしている部分ですし、スタッフにおいてもそこに気付いてもらいたいと思いながら会話をしています。そこに素直さは重要で、素直でなければ自分が正しいと思い続け、相当狭い世界で生きて行かねばならなくなります。きっと自分の考えが正しい!受け入れたくない!そんなの非常識だ!と思ったところで視野が広くなるわけではありません。客観視する事の大切さを知り、自分は無知だと認識し続け、本当の意味で知る事の大切さを知れば寛容さも広がり、心穏やかな生活もおまけでついてくるのかなと。

コメント

経験がミルフィーユのように重なり、腹に落ちる。そんな人生を歩んで生きたいです。

— 石田英昭