結論から言うと、合うわけがないのです。 合うものだと信じていることが間違いではないでしょうか。 みんなそれぞれ個性があり、育った環境も違い、親の教えや受け止め方も違うはずです。そもそも親や兄弟とも中身は違いますし、同じであるわけがないのです。同じであるわけがないのは百も承知なのに、合うものだ、あるいは合わせるべきだと思い込んでることが不自然だということです。
 
しかし、自分はどうも周囲の人と合わないと感じている人は相当多くいらっしゃると思います。時にはそのことに悩み過ぎて、落ち込んでしまったり、人付き合い自体を止めてしまう人もいるかもしれません。 これでは本末転倒です。
 
確かに日本では、周囲との協調性が必要以上に求められたり、みんなと同じことができることが良しとされる風潮も根強くあります。出る杭は当然打たれる空気もありますし、同じ考えでないと変人扱いされたりする事もあるでしょう。ただその反発心で引きこもったり、イライラしても仕方ありません。 
 
近年、ダイバーシティ、多様性が一層叫ばれるようになってきました。 流行りにのって何でもかんでも多様性を称賛することは危険だと私は思いますが、個人レベルにおいては、多様性が当然ではないでしょうか。
 
他人と自分は違って当たり前、合うわけがない前提で暮らしていくためにはどうしたら良いのかが課題になってくるのですが、私の答えは「互いに寄り添う」です。
 
私もスタッフ達とは別の生き物ぐらいの感覚で接しているので、それぞれに寄り添う形で接しています。 私に合わせるよう強要もしたくありませんし、私もスタッフに合わせようと考えていません。 必要なタイミングで、必要なだけ寄り添うだけです。
 
みんなそれぞれ得意不得意なことがあり、したいことやしたくないことが、その時々であるわけです。 休みたいタイミングも活動したいタイミングも皆違います。 食べたい物も家族間でさえ違うことは当たり前にあるでしょう。
 
だからこそ、自分はみんなと違う、みんなは自分と違って当たり前としっかり認識することが大切で、自分に持っていない相手の特徴を尊重し、気にいれば寄り添えばいいのです。気にいらなければ、寄り添う必要もありません。 寄り添いたくなったら、また寄り添えばいいのです。 この方法では無理が自分に生じません。楽なんです。 
 
多くの人はこの割り切りが出来ないか、悪とさえ感じているかもしれません。皆と一緒の方が安心感がある、他人と違うことをしてしまうと不安になる、集団の中で話を合わせないと煙たがれてしまい苦痛になる・・・など挙げればきりがありませんが、それは不毛の悩みなのです。 相手が嫌な態度をとってきても、ふ~んそうなんだ!とその人の言葉や動作を受け入れるだけ、それでいいんです。それも一種の寄り添いです。
 
怒りも湧きません。カチン☆ときたり、ショックを受けて悲しくなるうちは、この寄り添いが出来ていない証拠です。 違って当たり前。合わなくて当たり前。ただ寄り添えばいいんです。
11月 01, 2020

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