この言葉自体が別に変でもなければ、よく使われる言葉であるとも思うのですが、人と会話をしていても違和感を覚える単語が、この「普通」という言葉。
 
私はコーヒー屋なので、コーヒー屋あるあるや、常識的な案件というものはあるので、理解しあっている同士の会話に「普通」が存在することはあるでしょう。しかし理解しあっていない者同士では、日常的ではなく、異常に思えることもあるかもしれません。
 
それでも普通という言葉を多用することは何かと不都合や誤解を招くように思います。 これと似た言葉に「一般常識」があります。 一般常識的に○○とは言うものの、大体その発言本人の常識だったりするので、一般的でないこともしばしば。
 
また、コロナ禍で日常生活が一変し、ニューノーマルが定着しつつあります。 広く多くの人にとって普通と思えていた生活が普通ではなくなってしまったわけです。 それでも広く認知され、多くの人が適応した生活を営んでしまえば、もはやそれが普通となるわけです。それぐらい、普通というものは、あってないようなモノだと私は思っています。
 
当たり前と思っていることは、当たり前ではなかった!なんてことは皆さんも経験されていることでしょう。 親がいて当たり前、仕事があって当たり前、今の健康な体が当たり前と思っていても、いざコロナの様にひっくり返ってしまうと、当たり前ではない事に初めて気づくのです。
 
スタッフには口酸っぱくして言っていますが、お客様が来てくださることは当たり前じゃない、会社があることが当たり前じゃない! 何もかも当たり前じゃないよ!と伝えています。 そういうことを理解している人はやはり謙虚ですし、お客様に寄り添う姿勢が整っています。 
 
目配り、気配り、心配りなどの配慮に欠けてしまうと、感謝を忘れがちになってしまいます。 出来ている人からすれば、配慮するに決まっているわけで、それが普通なのですが、逆に身についていない人にとっては、考えたこともない習慣かもしれません。言い換えれば、普通ではない、当たり前ではないとなるわけです。
 
私自身、自分の通常、常識、普通、当たり前は、他人の非常識だろうと疑って生活するようにしているので、逆に他人が突拍子もない行動や発言をされても、嫌悪感を抱きにくい
です。
 
コーヒーも好きなように飲んでもらって結構ですし、本人が気にいっている方法なら、他人が口出すことではないと思います。 聞かれればこちら側の今現在の最新の淹れ方をお伝えすることは出来ますが、だからといって「普通そうですよ!」とはお伝えしません。
 
普通って普通じゃないんだなと分かっていただけると思いますが、むしろ人と違う、またはいつもと違う日常や状況を楽しむ方が、人生を豊かに出来ると実感しています。
 
「枠」にとらわれる話を以前書きましたが、枠と同様に、普通というのもある種の自分の枠なのでしょうね。 自分ひとりで楽しむ分にはいいですけど、人には押し付けたくない
ものです。