何となく違和感を感じてから積極的には使わなくなった言葉のひとつが「がんばる」です。何故違和感を覚えたのか忘れてしまいましたが、今も思うのは人から頑張れと言われると「人から言われるとやや不快だな」と反射的に思える言葉という感じでしょうか。人から頑張ってと言われても・・・と思ったりしませんか。人から言われていい気分になりにくい言葉なので、自分からは人に言わないようにしています。 

では自分に対してはどうでしょうか。自分に対して頑張ろうと思ってみても、既に努力しているだろうから進歩が見られないことも多いかもしれません。私自身、「よし頑張ろう!」と思ったところで力が湧いて来ないことが多いので、自分に向けて使っても意味がない言葉かもしれません。勝手な印象ですが、頑張る=無理をする印象もありますし、どことなく曖昧さが漂う言葉なので具体性にかけていて、どこをどう努力したら良いと決めてしまう方が個人的には早く解決できるので、尚更使わないセリフになってきています。

今これを書きながら、いつ頃から使わなくなったのか思い出そうとしてみましたが、子供としっかりと会話が出来るようになったあたりから、「頑張れ」を使わなくなった気がします。子供に頑張れと言ってみても、理由も分からないし、何を頑張るのかも分からないですから、全く持って意味をなさないセリフなわけです。子供に何かを伝える時は決まって明確な表現をして理由までもを理解できるように心掛けているので、頑張れという言葉を使わなくなったのでしょう。

他人に頑張れと伝える前に、相手のことをどれだけ理解出来ているのか知る必要があるかもしれません。全く同じ仕事や行動であったとしても、みんながそれぞれのペース配分で行なうでしょうし、キャパシティ(許容範囲)の中でしっかりと自分なりに頑張って生きているのだと思います。そもそも生きていくだけでも大変さを感じている人も多いわけですし、じっくり対象人物に向き合う必要がありそうです。向き合うことで相手への理解が深まり、結果的に頑張れという掛け声よりも適切な声掛けが見つかることでしょう。

そもそも頑張らなくていいんじゃないかとさえ思っています。生きる為には仕事や勉強はしなければいけないので、頑張らなければ生きられないのではと思いがちですが、頑張ろうとするとプレッシャーに感じやすいのではないでしょうか。気合や根性論を思わせるこの曖昧な言葉を使うよりも、ひたすら黙々と行動したり他人にそっと寄り添う方が効果的かもしれません。むしろ面白がってみる方向に転換してみる工夫が良いのかなとも感じています。

直面している案件をゲームをクリアする感覚に置き換え、雨あられと降り注ぐ困難を客観視し、バラバラに解体してみる。そのことさえもゲーム感覚で楽しんでみる。人生自体ゲーム感覚で生きた方が気が楽ですし、生きやすいのは自分で実証済みなので、私は困難が来たときは、目に見えないゲーム内のモンスターを攻略するぐらいの感覚で問題を解こうと意識付けしています。いつしか夢中になっている時もあるぐらいなので、頑張る必要がありません。もうそうなってしまうと、じゃあ頑張るって何なの?とさえなります。頑張らなくても死にはしませんよ。人にも言う必要がない言葉かもしれませんしね。