タイトルは映画「PLAN 75」の早川監督がインタビューで発していたセリフです。日本に帰国したら鑑賞してみようと思っている映画なのですが、なかなかのショッキングな設定になっていまして、観終わった後に自分がどんな感情を抱くのだろうかとドキドキしてしまいます。もちろんまだ観ていませんので何とも言えませんが、早川監督から発せられた今回のタイトルにあるセリフが既に自分には刺さりました。
なぜ刺さったのか。それは自分も現代社会において、この部分が年々欠落していっているように感じていたからだと思います。なんだろう、このモヤモヤする感覚はと思いながら生活していますし、一部の従業員とは人への思いやりが常に大事だよね、でもそれが人によってはし難い環境や空気感があるよね、などと会話もしていましたので、それも相まって刺さったのでしょう。
身近な人に対する想像力ぐらいは働かせることできるよ!と思う人も、本当に出来ているのでしょうか。常日頃から多くの会話をしているのであれば相手に対して想像しやすいとは思いますが、親兄弟や家族であったとしても、果たして私たちは相手への想像力を働かせた上で接しているでしょうか。身近だからこそ、それぐらい理解しているだろうと解釈して、その考えを前提にやや乱暴に発言したり接したりしていることもあるのではないでしょうか。これは常に私の頭の隅に留めている事柄でして、分かった気になってはいやしないか、粗末に人と接してはいないだろうかと考えてしまいます。行動に移した後に後悔することも多く、その度に自分の不甲斐なさを感じ、もう少し丁寧な接し方を心掛けなければと修正をかけて行っているというのが私の現状です。歳ともに丸くなるのもそのせいかもしれません。
それでは身近ではなく、赤の他人ではどうでしょうか。身近な人にでさえ難しい想像力の働かせ方を、接点のない人に対して出来るでしょうか。もしくは意思疎通の出来ない動物や植物、はたまた環境などへの想像力が働くでしょうか。そんなのいちいち考えていたらノイローゼになってしまうよと思う方もいるかもしれませんが、私は少なくとも意識しながら生活することは大切ではないかと考えます。冒頭のモヤモヤ感は、他人はどうでもいいよ、自分さえ良ければそれでいい!といった風潮が強くなってきているところに違和感を覚え始めたから生まれた感情だとは思います。
世の中の全てにおいて効率化が求められ、人の感情がないがしろにされ易い世界が急速に広がり、気付けば日本も核家族よりも更に小さい、最小単位である「個」で独り暮らし世帯が増え続けています。困りごとがあってもカスタマーサービスは電話からチャットボットが主流となり、人との接点が消えてきています。世界中どこでもそうです。完全に他者に対する想像力の欠如の賜物です。この状況が加速度的に進んでいる世界で、人々はこの状況に違和感を覚えながらも適応せざるえなくなっており、いつの頃からか自分までが他人に対する想像力を働かせる事を忘れてしまっているのではないかと考えるのです。慣れとは恐ろしいものです。
その結果、声が大きい人の意見が通りやすいとか、地位や権力、財力のある人の意見が通りやすいなど偏った社会が広がっています。モンスターペアレンツやクレイマーに気を遣う学校や店、企業が増えたのもこの流れです。もう「人への思いやり」なんて死語に近い状況になっているこの社会が末恐ろしいと感じるのは私だけでしょうか。これに適応してしまっても良いものでしょうか。